総持寺の立ち飲み「浅野屋」

総持寺の立ち飲み「浅野屋」
おまえ、大阪に「立ち飲み3銃士」て呼ばれてる人達がいるん知ってるか。大阪の立ち呑み屋さんのいたるところに出没しているらしいで。立ち飲み3銃士の活躍は、毎日新聞夕刊にときどき「酩酊88ヶ所 大人の遠足(じゅんれい)」として連載されてるから、その存在を知っている人も多いやろ。
経歴を見たら、関大を卒業した後、毎日新聞社に入社して経済部や特別報道部なんかにいてたんやが、硬い話を取材すると必ずコケるんで、街ダネ一筋と思い定めて社会部に10数年。缶ビール片手やないと原稿が書けへん身となったホンマもんの呑み助らしい。
この本は、松井さんや立ち飲み3銃士が、大阪で立ち呑みの立ち呑みたる所以を発揮している立ち呑み屋さんを、西国88ヶ所の札所と見立てて紹介した本なんや。
この付近で紹介されてる立ち呑みは、30番 総持寺札所 浅野酒店と、31番 茨木札所 岡富や。
ほなら、今日は浅野酒店の話をしよか。
浅野酒店は阪急総持寺駅のほん近くにある。駅北口から前面に広がる三叉路の、向かって左の道を2分も歩いたら、道路左手に見えてくんで。典型的な酒屋付属型立ち呑み屋さんや。
長方形の形をした奥行きのある店でな、暖簾をくぐったらJ字型に14、5人が立ち宿れるカウンターがあって、1番奥に8人掛けテーブルと4人掛けのテーブルが1卓づつ置いてある。結構、奥行きの深い容量の大きな立ち呑み屋さんなんや。
午後3時30分に店開けて、閉めるんが午後10時。けど、呑み助が誰か残ってたらそいつが帰るまで店は閉めへんよって、午後10時を超えてからも、結構、長い時間、開いてることが多いようや。
この店の立ち呑みの始まりは1971年頃からで、先代の浅野英二さんが、隣の空地に酒の空箱をひっくり返して、その上に板を置いて飲ませたんが事の始まり言うことや。ここら辺の呑み助たちの巣窟として40年になろう言う老舗やな。店は古いけど、昭和38年当時の総持寺駅の写真が飾られたりしてて、中に入ったら総持寺の伝統と歴史が目一杯宿ってんで。
3年前ぐらいまでは先代はんも店に出てたようやが、今は引退してしまいはって、30歳後半になる息子の浅野謙介さんとその奥さんが店を仕切ってはる。

(店主の謙ちゃん)
店に入ると、店主と奥さんから、「いらっしゃい」やのうて「お帰り~」て声がかかる。先代夫婦の時代からずっとそうしてきてはるそうや。「お帰り~」て声かけられたら、今日も1日無事に終わったんやと思えて、こっちもなんかホッとするもんな。
当ては乾きもんから刺身まであれこれ満載やで。嬉しいんはその値段やな。最高額が300円でな。「当てがえらい安いでんなァ」て聞いたら、店主の謙介さんから、「1000円で1杯ひっかけてちょっとお釣りがくる。これまでずっとそう言う店でやってきましたよって、これは変えられまへん」言う答えが返ってきた。頑張ってはるなァ思うわ。
試みにどんな当てがあるか、主なラインナップを挙げてみよか。
ラッキョー150円、なんこつカラ揚げ200円、れんこんはさみ揚げ200円、とりの皮揚げ200円、たこの唐揚げ150円、げその塩焼き200円、さきイカ天ぷら150円、焼きじゃこ天150円、ポテトフライ150円、肉じゃがコロッケ100円、焼き山いも200円、エイヒレ250円、あげギョウザ200円、あらびきウィンナー200円、かきフライ150円、シューマイ150円、詰ちくわ150円、いわしフライ150円 てな具合や。
店の中には、先代夫婦の往年の勢力関係を示すようにな、中央の柱に先代の奥さんの遺影が掲げられてて、奥の方の壁に先代はんのイラスト画がちょこっと架かってる。なにせ先代の奥さんはこのあたりでは評判の肝っ玉母さんやったようや。常連客が酔いどれたら、ビシッと叱りつけてな、誰も奥さんには頭が上がらんかった言うこっちゃ。
酒の当てもすべてその奥さんの手作りで、今の奥さんがお嫁さんにきてから、近所の魚屋さんや八百屋さんやあれこれの店を回ったら、どこへ行っても、あんたのおかあさんはなァ、かくかくしかじかでなァ言うて、往年のその肝っ玉ぶりを聞かされた言うてはった。
けど、病魔に蝕まれてしもてな。奥さんが50数歳、謙介さんが大学生のときに若うして亡くなりはった。きっと、当時は、しばらくの間、総持寺駅前周辺は灯が消えたようやったやろ思うわ。
酒屋やから当然のことながら、日本酒、焼酎、ビール、ワインなんでもござれやけど、ここで日本酒言うたら清鶴やな。おまえ、清鶴、知ってるやろ? 富田の地酒。
富田の地酒のことでちょっと薀蓄を垂れるとな、富田言う地域は、江戸時代前期までは寺内町として栄えてた。今でも阪急富田駅から南の方にほんの少し歩いたら、清蓮寺、本照寺、普門寺、教行寺なんて言うお寺さんがちょっとした範囲の中に一塊になってひしめいてる。
富田は昔から地下水脈が豊富で良質な米がとれたからな。これを利用して江戸時代中期からは寺内町から酒造の町へと変貌したんや。明暦言うたら1655年頃やが、その頃、富田には24軒の酒造家が軒を連ねて、8200石を超える酒造高を誇ってたそうや。えっ、8200石てどのくらいやて? オレに聞いたてそんなん知るかい。高槻市の教育委員会の資料にそう書いてあったんや。まあ、とにかくえらい量の酒を作ってた言うこっちゃろ。けどな、度重なる酒造禁止令や伊丹や灘の発展に押されてしもて、幕末には酒造家は6~7軒にまで減って、今ではとうとう2軒になってしもた。
その1軒が「清鶴」を作ってる「清鶴酒造」で、もう1軒が「國乃長」の名でここら辺では親しまれてる「國乃長寿酒造」や。で、その訳は知らんが浅野酒店は先代からずっと清鶴専門なんやそうや。おれはビール党で日本酒は飲めへんからよう知らんが、清鶴と國乃長を比較したら、清鶴の方がちょっと甘口らしいで。
この店でビールを飲みながら当てを食うたら、なんてことのない当てでもなんか特別に旨い気ぃがする。それはな、長年にわたって先代から形づくられてきたこの店の歴史と、今の店主夫婦の睦まじさ、誠実さ、店主夫婦の常連客への熱い思い、そういうもんが当てん中に調味料になってたっぷりふりかかってるからやと、おれには思えるんや。
浅野酒店ももうそろそろ建替えの時期にきてるんやろけど、おれら立ち呑み党にとったら、いつまでもここにこのまま残っていて欲しいよなぁ。
![pubs_staff-350x350[1]](https://blog-imgs-26-origin.fc2.com/a/j/i/ajiwai25/2011080513235069b.jpg)
(無料イラスト集から転載 http://image-search.yahoo.co.jp/detail?p=%E7%84%A1%E6%96%99%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E9%A3%B2%E3%81%BF%E5%B1%8B&b=41&rkf=1&ib=40&ktot=0&dtot=0)
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