阪急沿線グルメ散歩(番外編ー思い出箱ー)
阪急沿線グルメ散歩(番外編-思い出箱ー)
俺が生まれ故郷の愛媛から大阪に出てきたんは昭和48年4月のことやから、俺の大阪での生活はもうかれこれ40年を越えた。
その間、吹田市、池田市、南河内郡太子町、高槻市と移り住んできんやが、その大半が阪急沿線やった。
俺は入庁後、当時、成人病研究ではその名を全国に馳せていた、大阪市内の森之宮にある府立成人病センターに配属された。
そして、仕事が終わると、環状線に乗って森之宮駅から大阪に出、梅田で阪急神戸線に乗り換え、大学のある阪急六甲まで通う毎日を送ってた。
その頃大阪では、高度経済成長の中、公害が大きな社会問題になってた。
光化学スモッグ警報が絶え間なく発せられ、都市全体が経済成長という妖怪の排出する老廃物のドームの中にすっぽり包み込まれていたんや。
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その公害に汚染された空気は、田舎出の俺を直撃した。
鼻孔がムズムズし目がチカチカ疼いて、俺の頭は毎日割れるように痛み、遂にはこの大阪での生活に耐えられなくなってきたんや。
あれは秋も深まり、そろそろ町全体が冬支度に入った頃のこと。
梅田で乗り換えた電車が、十三(じゅうそう)大橋を超えた辺りにくると、淀川を前景に真っ赤な夕日が目に飛び込んでくたんや。
いや真っ赤というのはあたらない。それは公害が作り出した人造的な夕日ともいえるもんやった。
濁った空気を夕日が赤く爛れるように染め上げ、窓の外の景色を煮えたぎらせているようやった。
その夕日は、絶え間ない頭痛の中で、こうして都会に出てきたからにはおめおめ尻尾を巻いて田舎に帰る訳にはいかへんという思いと、このままでは体も心もつぶされてしまうという恐れの交錯する俺の心の中に雪崩を打って入り込んできたんや。
あの光景はなんとも鮮烈やった。俺はその夕日を見ながら何度涙ぐみ、何度故郷に帰ることを考えたことやったか。
今でも阪急電車に乗って窓外に目をやると、苦しい思いを抱きながら爛れるようやった夕日を見つめたあの日々が鮮やかに脳裏に蘇る。
阪急電車での思い出は尽きへん。
若い時分はよく仕事帰りに飲んだくれ、車内で居眠って駅を乗り過ごしたもんやった。
一度などは職場の歓送迎会と別の宴会が3晩重なって、3日目の夜、宴会を終えて10時頃、宝塚駅で電車に乗り目が覚めてみると、まだ電車が駅を出てへん。
おかしいなあと時計を見ると夜中の12時やないか! なんと梅田駅まで電車で往復していたなんてこともあった。
また、22、3歳の頃、クリスマスの夜、友人と2人梅田で酔っぱらってしもて、塚口に住むその友人のアパートまで歩いて帰ることになったときのこと。
迂回を嫌うて十三大橋にかかる100メートルは優に超える鉄橋を深夜に渡ったことがあった。
あのとき、もし回送列車が走ってこようものなら、今の俺はあったやろか。まったく若気の至りとはいえ無謀なことをしたもんや。
そういえば嫁はんにプロポーズらしいことをいったんも、当時、阪急富田駅近くに住んでいた彼女を送る電車の中やなかったか。
十三駅構内の立ち食いそばにも随分お世話になった。
池田土木事務所に勤務していた頃は、十三を経由して富田駅と池田駅を往復する毎日やったが、行きといわず帰りといわず、小腹が空いたときには、十三駅構内の中州にある「うどん、そば処」に立ち寄って、立ち食いそばをよく食べたものでや。
天カスをたっぷり入れて汁の中に油が滲み出すところを、ハフハフいいながら喉の奥に流し込むそばは殊のほか旨く、汁もすべて飲みきるのが常やった。
フリーイラスト(⇒掲載ページ)
まったくもって、阪急電車は俺にとって大切な思い出箱には違いない。
俺はこれからも、阪急電車という俺の思い出箱に俺の人生の軌跡を満たしていきたい、そう思てる。
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