エッセイ「満月に吠える」(その④)
満月に吠える(その④)
10時前に残業を終えて、俺は今夜ももりたまYAに立ち寄った。
カウンターに座り白板の「今日のメニュー」を見ると、昨夜に引き続いてチキンカレーの文字があった。
「たまちゃん、昨日のカレーが売れ残ったんかいな」と言った後、迷わず俺が「ビールにチキンカレー」そう注文すると、「あんたも好きねえ」とたまちゃんが笑い、それに「好きこそ物のなんとやらって言いますもんね」とちなみちゃんが受けた。
ちなみちゃんは、隔日にもりたまYAでバイトしている、歳の頃にすれば20代中頃のファッショナブルレディーである。
俺にはちなみちゃんのことでは忘れられない思い出がある。
それは、正月が明け幕の内を過ぎた頃、ここ大阪北摂地方にもその冬初めての大雪が降った日のことや。
吹きすさぶ雪と風でチャリンコを走らせることができず、JR摂津富田駅あたりを押しながら歩いていると、誰かが俺の肩を叩いた。
振り向くとちなみちゃんや。
その頃、ちなみちゃんはもりたまYAにバイトで入って日が浅く、俺はまだ親しく声をかける機会がなくて、遠くの方から熟れたダイヤモンドの輝きを透かし見る、そんな気持ちで彼女を眺めていた時期やったから、気さくに彼女が俺に話しかけてくれたことが嬉しかった。
人が聞けばなんともない会話やが、あのときのちなみちゃんとの会話を俺は忘れない。
「お、びっくりした」
「浪花さん、おはようございます。今日はすごい雪ですね」
「そうやなあ、今年初めての大雪やなあ。あれ、ちなみちゃんは、昼間、どこかに勤めてんのか?」
「そうなんです。梅田に事務所があるんです。この雪やから遅刻しちゃって。支店長に叱られちゃう」
「ほんま、都会は雪に弱いからなあ。しゃあないやんか。支店長さんには俺が電話したろか」
「ホントに! 嬉しい。でも自分で言います。自転車、危ないですから、気をつけてくださいね」
「ありがとう。君も気いつけてな。今夜はもりたまYAにくるんか?」
「いえ、今日は私はお休み」
「そりゃ、残念やな。ほな、気いつけていきや」
これだけの会話やったが、俺の心は震えた。この中年男はスケベなくせにウブなんや。
そのちなみちゃんが、俺の席にビールとカレーを運んできてくれて、俺はちなみちゃんとこんな会話をした。
「実はね、私、結構カレーにはうるさいんですよ。浪花さんもカレーをよく作りはるらしいけど、市販のカレールーじゃなくて、スパイスでカレーを作ったことあります?」
「そんなんないわ。俺のカレーグルメは中途半端やからな。カレーはいつも熟カレーとコクマロカレーに決めてんねん。
市販のカレーのルーやカレーパウダーって、30十種類ぐらいのスパイスを混ぜてるって聞いたことあるけど、それやったら、もう、スパイスなんかいらへんのとちゃうの?」
「でも自分なりのオリジナルカレーを作ろ思たら、やっぱりカレールーやのうてスパイスをミックスしなくちゃ。それにカレールーって小麦粉が入ってるからとろみがつきますやん。スープっぽいカレーを作ろ思たら、どうしてもスパイスじゃなくっちゃねえ」
「スパイスの種類って、全部で90種類ぐらいあるらしいんですけど、私のよく使うんはコリアンダー、クミン、カルダモン、シナモン、クローブ、ターメリック、フェンネル、ガラムマサラ、ブラックペパー、それに……」
「ち、ちょっと待ってえな。そんなん覚えられへんわ。俺の知ってるんはガラムマサラだけや。タマちゃんのカレーに入ってる辛いやつや」
「そうそう。でもガラムマサラそのものも、シナモン、クローブ、ナツメグを混ぜた混合香辛料なんですよ。それにガラムマサラは辛味より香りをつけるために使うみたい。
私もまだ初心者やから分からへんこと多いけど、スパイスを色々量を代えながら混ぜてみて、さて、どんな味になるのんか食べるのって結構楽しいですよ。
浪 花さんは料理好きやから、一度始めたらはまるんちゃうかな」
「俺はちなみちゃんのカレーにはまりたいわ」
「ダーメ。私のカレーは彼だけのカレーやから」
「掛け言葉なんかでシャレちゃって。チェッ、残念やなあ」
その夜のカレーは、当然のことながら色も味わいも昨夜と一緒やった。
何度食べてもたまちゃんのチキンカレーは辛くてうまい。まったく心に沁みる。
骨つき鶏肉はスプーンを肉片に当てただけでポロリと骨からもげ落ち、その肉片にたっぷりカレールーをまぶすようにして口に運ぶと、鶏肉のうまみがルーと溶け合うようやった。
30分程、カレーを当てにビールを飲んで、人目がなければ皿にこびりつくように残ったカレーのルーを、犬のようにベロでぺロぺロ舐め取るところやが、それは我慢して勘定を済ませ、俺は我が家に向けてチャリンコを走らせた。
その日は満月やった。見上げると街の明かりで星の光を失った都会の青黒い中空に、オレンジ色に染まったお月様がまだらな薄い陰を抱えてくっきりと浮かんでた。
俺はその満月をペダルを漕ぐ間に垣い間見ながら考えたんや。
(家に帰ったらひょっとしたら、今朝のカレーが残ってるかもしれへん。確かバスケットの中にフランスパンがあったはずや。あのパンをトースターで焼いて、それをカレーにつけて食べたろ)
その思いに急かされ、俺がペダルを強く踏み込むと、もう10数年来乗り続けているチャリンコがギーコギーコ鳴った。
もうこの老体も買えどきがきたようや。
この日は下腹部に膨張感があるわけではなかったが、なんとなく小便がしたくなって、俺はいつものように自宅近くの公園の裏手で『犬を散歩させる方、ウンコを持って帰ること、常識です』と掲示された立て看板のその横にチャリンコを止め、これまたいつものように「小便だから水に流してや」そう小さくつぶやいてマーキングした。
そして満月を見上げると、月面のまだら模様がカレーライスに見えてきて、俺は思わずその満月に向かい、狼男のようにウオーッと吼えたんやった。
フリーイラスト(⇒掲載ページ)
(了)
10時前に残業を終えて、俺は今夜ももりたまYAに立ち寄った。
カウンターに座り白板の「今日のメニュー」を見ると、昨夜に引き続いてチキンカレーの文字があった。
「たまちゃん、昨日のカレーが売れ残ったんかいな」と言った後、迷わず俺が「ビールにチキンカレー」そう注文すると、「あんたも好きねえ」とたまちゃんが笑い、それに「好きこそ物のなんとやらって言いますもんね」とちなみちゃんが受けた。
ちなみちゃんは、隔日にもりたまYAでバイトしている、歳の頃にすれば20代中頃のファッショナブルレディーである。
それは、正月が明け幕の内を過ぎた頃、ここ大阪北摂地方にもその冬初めての大雪が降った日のことや。
吹きすさぶ雪と風でチャリンコを走らせることができず、JR摂津富田駅あたりを押しながら歩いていると、誰かが俺の肩を叩いた。
振り向くとちなみちゃんや。
その頃、ちなみちゃんはもりたまYAにバイトで入って日が浅く、俺はまだ親しく声をかける機会がなくて、遠くの方から熟れたダイヤモンドの輝きを透かし見る、そんな気持ちで彼女を眺めていた時期やったから、気さくに彼女が俺に話しかけてくれたことが嬉しかった。
人が聞けばなんともない会話やが、あのときのちなみちゃんとの会話を俺は忘れない。
「お、びっくりした」
「浪花さん、おはようございます。今日はすごい雪ですね」
「そうやなあ、今年初めての大雪やなあ。あれ、ちなみちゃんは、昼間、どこかに勤めてんのか?」
「そうなんです。梅田に事務所があるんです。この雪やから遅刻しちゃって。支店長に叱られちゃう」
「ほんま、都会は雪に弱いからなあ。しゃあないやんか。支店長さんには俺が電話したろか」
「ホントに! 嬉しい。でも自分で言います。自転車、危ないですから、気をつけてくださいね」
「ありがとう。君も気いつけてな。今夜はもりたまYAにくるんか?」
「いえ、今日は私はお休み」
「そりゃ、残念やな。ほな、気いつけていきや」
これだけの会話やったが、俺の心は震えた。この中年男はスケベなくせにウブなんや。
そのちなみちゃんが、俺の席にビールとカレーを運んできてくれて、俺はちなみちゃんとこんな会話をした。
「実はね、私、結構カレーにはうるさいんですよ。浪花さんもカレーをよく作りはるらしいけど、市販のカレールーじゃなくて、スパイスでカレーを作ったことあります?」
「そんなんないわ。俺のカレーグルメは中途半端やからな。カレーはいつも熟カレーとコクマロカレーに決めてんねん。
市販のカレーのルーやカレーパウダーって、30十種類ぐらいのスパイスを混ぜてるって聞いたことあるけど、それやったら、もう、スパイスなんかいらへんのとちゃうの?」
「でも自分なりのオリジナルカレーを作ろ思たら、やっぱりカレールーやのうてスパイスをミックスしなくちゃ。それにカレールーって小麦粉が入ってるからとろみがつきますやん。スープっぽいカレーを作ろ思たら、どうしてもスパイスじゃなくっちゃねえ」
「スパイスの種類って、全部で90種類ぐらいあるらしいんですけど、私のよく使うんはコリアンダー、クミン、カルダモン、シナモン、クローブ、ターメリック、フェンネル、ガラムマサラ、ブラックペパー、それに……」
「ち、ちょっと待ってえな。そんなん覚えられへんわ。俺の知ってるんはガラムマサラだけや。タマちゃんのカレーに入ってる辛いやつや」
「そうそう。でもガラムマサラそのものも、シナモン、クローブ、ナツメグを混ぜた混合香辛料なんですよ。それにガラムマサラは辛味より香りをつけるために使うみたい。
私もまだ初心者やから分からへんこと多いけど、スパイスを色々量を代えながら混ぜてみて、さて、どんな味になるのんか食べるのって結構楽しいですよ。
浪 花さんは料理好きやから、一度始めたらはまるんちゃうかな」
「俺はちなみちゃんのカレーにはまりたいわ」
「ダーメ。私のカレーは彼だけのカレーやから」
「掛け言葉なんかでシャレちゃって。チェッ、残念やなあ」
その夜のカレーは、当然のことながら色も味わいも昨夜と一緒やった。
何度食べてもたまちゃんのチキンカレーは辛くてうまい。まったく心に沁みる。
骨つき鶏肉はスプーンを肉片に当てただけでポロリと骨からもげ落ち、その肉片にたっぷりカレールーをまぶすようにして口に運ぶと、鶏肉のうまみがルーと溶け合うようやった。
30分程、カレーを当てにビールを飲んで、人目がなければ皿にこびりつくように残ったカレーのルーを、犬のようにベロでぺロぺロ舐め取るところやが、それは我慢して勘定を済ませ、俺は我が家に向けてチャリンコを走らせた。
その日は満月やった。見上げると街の明かりで星の光を失った都会の青黒い中空に、オレンジ色に染まったお月様がまだらな薄い陰を抱えてくっきりと浮かんでた。
俺はその満月をペダルを漕ぐ間に垣い間見ながら考えたんや。
(家に帰ったらひょっとしたら、今朝のカレーが残ってるかもしれへん。確かバスケットの中にフランスパンがあったはずや。あのパンをトースターで焼いて、それをカレーにつけて食べたろ)
その思いに急かされ、俺がペダルを強く踏み込むと、もう10数年来乗り続けているチャリンコがギーコギーコ鳴った。
もうこの老体も買えどきがきたようや。
この日は下腹部に膨張感があるわけではなかったが、なんとなく小便がしたくなって、俺はいつものように自宅近くの公園の裏手で『犬を散歩させる方、ウンコを持って帰ること、常識です』と掲示された立て看板のその横にチャリンコを止め、これまたいつものように「小便だから水に流してや」そう小さくつぶやいてマーキングした。
そして満月を見上げると、月面のまだら模様がカレーライスに見えてきて、俺は思わずその満月に向かい、狼男のようにウオーッと吼えたんやった。

フリーイラスト(⇒掲載ページ)
(了)
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