母のこと⑩
母のこと⑩
母は、今は町村合併により西予市になっているが、当時は、愛媛県東宇和郡日吉村と呼ばれていた山間部の農家の長女として生まれたのだった。
祖父母は、長男の出生を強く願い、次こそ次こそと期待しながら、母を頭に次から次へと女児ばかりを6人産んだのだった。
もう、これで諦めよう、最後にしようと産んだ子が男児なのだった。
喜んだ祖父母は、あとふんばりし、もう1人、男児を産んだのだった。
長男は幸弘、末っ子の次男は友弘と名づけられたのだった。
母を産んで後、次男の友弘が生まれるまでに、かれこれ20年の歳月が流れていたから、末っ子の友弘は、母が父に嫁ぎ、姉と私を産んだ後に産まれたのだった。
そんなわけで、叔父にあたる友弘君は、私より歳下なのだった。
こんなことは、昔はいくらでもあることなのだった。
母は尋常小学校を卒業して、西条市の製糸工場に勤めに出るまで、背中に弟を背負い、手には妹の手を握りしめて、子守に明け暮れる生活を送ったのだった。
日吉村に住む同じ年頃の子らが、自由に野原を駆け回り姿を見て、母にはうらやましくてならなかったのだった。
祖母は、末っ子の友弘を産んで数年して、癌をわずらい50余歳の生涯を終えたのだった。
そのとき、私はまるで歳端のいかない幼子なのだった。
それでも、どこかに祖母の死に顔を見た記憶がおぼろげに残っている気がするのだった。
そして、その死に顔は、私が小学生の頃に死んだ私の父親、祖父の死に顔に重なっているのだった。
その死に顔は、棺おけの中で真っ白に光っているようなのだった。
母は、今は町村合併により西予市になっているが、当時は、愛媛県東宇和郡日吉村と呼ばれていた山間部の農家の長女として生まれたのだった。
祖父母は、長男の出生を強く願い、次こそ次こそと期待しながら、母を頭に次から次へと女児ばかりを6人産んだのだった。
もう、これで諦めよう、最後にしようと産んだ子が男児なのだった。
長男は幸弘、末っ子の次男は友弘と名づけられたのだった。
母を産んで後、次男の友弘が生まれるまでに、かれこれ20年の歳月が流れていたから、末っ子の友弘は、母が父に嫁ぎ、姉と私を産んだ後に産まれたのだった。
そんなわけで、叔父にあたる友弘君は、私より歳下なのだった。
こんなことは、昔はいくらでもあることなのだった。
母は尋常小学校を卒業して、西条市の製糸工場に勤めに出るまで、背中に弟を背負い、手には妹の手を握りしめて、子守に明け暮れる生活を送ったのだった。
日吉村に住む同じ年頃の子らが、自由に野原を駆け回り姿を見て、母にはうらやましくてならなかったのだった。
祖母は、末っ子の友弘を産んで数年して、癌をわずらい50余歳の生涯を終えたのだった。
そのとき、私はまるで歳端のいかない幼子なのだった。
それでも、どこかに祖母の死に顔を見た記憶がおぼろげに残っている気がするのだった。
そして、その死に顔は、私が小学生の頃に死んだ私の父親、祖父の死に顔に重なっているのだった。
その死に顔は、棺おけの中で真っ白に光っているようなのだった。
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