断酒日記再び(11/20 弟)
昨日の記事では、ハンドルネール「maria龍女」さんのブログ「吐血混沌断酒日記」の感想などを書いたが、今朝、龍女さんの最新記事(→掲載ページ)やその他の記事を読んでいて、昨日の記事に誤った記述があったことに気づいた。
以下に訂正します。ごめんなさい。
2つには、龍女さんが断酒会やAAなどの自助グループにかかわりをもたず、自力で断酒を続けておられるとの記述。
昨日の龍女さんの記事は、YouTubeのお酒を止める方法を説明する動画に対する批判で、龍女さんはアルコール依存から脱するためには「自力じゃ無理、自助会か専門クリニックに行くほうが無難」ということを強調されている。
してみると、龍女さんも断酒会やAAになんらかの関わりをもたれているのかもしれない。
すべての記事をきっちり読まないで文章を書くと、えてしてこういう過ちをおかしてしまう。私の悪い癖である。
お詫びして訂正します。龍女さん、ごめんさない。
■ 私の兄弟姉妹
ところで、私は昨日の記事(→掲載ページ)で、過去に見聞きしてきた人たちの中に、アルコール依存症に苦しんだ人を思い出すと両手では足りないと書いた。
具体的にそういう人のことを思い出していて、思わずアッと声を上げてしまった。
7年前に、47歳でクモ膜下出血で死んだ弟も、アルコール依存症だったであろうことに思いいたったからである。
私には姉と弟がいる。私たちは愛媛県の高知県境の山間僻地に育った。ご他聞に漏れず貧農で、猫の額ほどの田畑を耕しながら、家族5人がほそぼそと暮らしていた。
私たち兄弟が育った当時(昭和40年代)は、日本が高度経済成長曲線に入り、都会では好景気に沸いていたが、その余波はまだ私たちの住む山間僻地までは届いていなかった。
姉と私は中学校を卒業すると、今では死後となった集団就職で、姉が西条市の紡績工場に、私が松山市の印刷工場に就職した。中卒者が金の卵といわれた時代である。
私たち兄弟は、昼間は働きながら夜間高校に通った。
■ 弟
私より3歳年下の弟は、せめてこの子だけはと父母が全日制の高校に通わせた。大学も九州の某国立教育大学に入学した。
「本当は美術科にいきたかったが、間違って技術科に入学してしまった。俺には技術科はあわん」そういって1回生の途中で、弟は大学を退学したのだったが、入試時に美術と技術を間違うはずがない。それは、弟一流のいいわけだったろう。
弟はその後、東京に出た。画家か演出家になることを夢見ての上京だった。
広告会社など数社を転々としながら、絵、漫画、シナリオ、文章などを書いて、デビューの機会を窺っていたが、小才があったにすぎない弟にその機会は訪れなかった。
なお、弟の名誉のために書いておくが、弟の書いたあるシナリオが、演出家の登竜門といわれた城戸賞の最終選考に残ったことがある。
また、漫画はナンセンス漫画で、ある雑誌で連載が決まったことがあるのだが、連載を開始直後に、その雑誌が経営不振で廃刊の憂き目にあったと聞く。
運と機会があれば、弟にも表舞台にたつ可能性はあったのである。
弟は、遂には、江古田駅商店街の近くに「愚劣庵彦六」という、いかにも弟らしいひねた名前の小さな画材店を開いた。
しかし、画材店の経営だけでは食っていけなかったから、深夜には夜間工事の巡回員などをしながら、なんとか糊口をしのいでいたのだった。
■ 弟の死
その弟が、一人暮らしのアパートで死んでいるのが見つかったのは、死後2日目のことだった。クモ膜下出血だった。弟が出勤してこないのを不信に思った会社の人事担当者がアパートを訪ねて見つけたのである。
一人暮らしということもあり、弟の部屋は見るも無残で、台所には焼酎瓶、ビール缶、一升瓶などアルコール容器が散乱していた。
生前(といっても弟が死ぬ10数年前のことだが)、何度か弟とは飲む機会があったが、かなりの酒豪だった。
弟は、昼間の画材店の経営と不規則な夜間の労働、それにアルコールが拍車をかけて、死を得たに違いなかった。きっと、既にアルコール依存状態だったろうと思う。
連絡を受けた母と姉と私は、取るものもとりあえず、東京に出た。不審死の疑いありというので、練馬署で検視が行われたあと、霊安室で私たちは弟と対面した。
その夜のビジネスホテルでの母の言葉が忘れられない。母はこういいながら涙をぬぐうのだった。
「信子よ、太郎よ。あんまり人前でこんなことは口にできんが、幸夫はああしてぽっくり逝ってよかったんじゃ。これが半身不随とか全身麻痺で生きとってみい。東京の空港から飛行機で愛媛まで運んで、今、私が住んじょるあの家で幸夫を看病せんといけんことになってみい。それは大変なことじゃ。そうなって、幸夫の意識がしっかりしちょったら、一番辛いんは本人じゃ。それを考えたらこれでよかった。そう思たら少しは気も楽になる」
私は、その言葉にただ頷くだけだったが、その母の言葉は、一面本音で反面そうではなかっただろうと思う。
母はそう言うことで、無理やりに我が子の死という現実を受け入れようとしていたに違いない。
■ 祈り
翌日から、私が画材店の処分と整理を、母と姉さんがアパートの整理をそれぞれ分担することを決めて、床につく前に、クリスチャンである母と姉さんは、神様に祈りを捧げた。
こうである。
天にまします我が神様。今日、私ども母子を、弟、幸夫に会わせていただいたことに感謝いたします。アーメン。
弟はあなた様の御心のままにあなた様の元に旅立ちました。弟は妻子をもたず只1人、この東京で生きてきて、その人生は決して平穏なものではありませんでしたが、あなた様の恩寵のおかげをもちまして、その生を真面目に生きたことに深く感謝いたします。アーメン。
弟が不正をなさず、人から忌み嫌われることもなく、誠実に働いていたことを知り、どんなに私どもは安心しましたことか。それもこれもあなた様の御恵みだと深く感謝いたします。アーメン。
弟の画材店の経営は決して順調ではないようでしたが、それでもこうしてここまで、なんとかつぶれることもなく営業してこれたのは、ひとえにあなた様のお陰と感謝いたします。アーメン。
明日から画材店の整理をいたしますが、どうぞ、この店に大きな借金がなく、つつがなく店を閉めることができますよう、私どもをお助けいただいて、弟を何の憂いもなくあの世に旅だたせてくださるようお祈りいたします。アーメン。
老いた母の悲しみには例えようもなく深いものがありますが、温かい御心をもって1日も早く母を立ち直らせていただきまして、また母に平穏な日常が訪れますよう祈りいたします。アーメン。
あなた様はいつも私どもと共にあり、あなた様の恩寵を私どもに降り注いでいただき、私ども母子が幸せに暮らしていけますようお祈りいたします。アーメン。
姉さんが神様への感謝を言葉にして、その言葉に母がアーメンと和して、私はただうなだれてその祈りを聞くだけだった。
■ 7年の月日
もうあれから7年の月日が流れた。
考えてみると、不遇の中で一人死を得た弟も厳しく辛い人生を歩んでいたのだろうと思う。その辛さを酒に逃げたのだったろう。
反面、弟のあれからを考えると、母のいうように、クモ膜下出血でポックリ逝けたことは、障害を残しながら生きながらえるよりは幸せだったのかもしれない。
父も弟も、そしてこの私もアルコール依存という病に冒され、父は晩年、断酒会とのつながりを得て平穏な人生を送り、弟は死を得た。
そして、この私は、今、やっと断酒会とのつながりを持ち始めたところである。
私は、これまでにつくってしまった借金という重い荷物を背負いながらではあるが、これから、断酒会とのつながりを切らすことなく、新しい人生を歩んでいきたい。弟の死を顧みながらそう思う。
断酒13日目。今日はさして飲酒欲求はなかった。明日は断酒会である。必ず出席しようと思う。
1日断酒あるのみ。
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