底付きと否認(その1)
底つきとはどういうことだろう。断酒をはじめてからずっとそのことを考えてきた。
このブログにも、断酒をはじめてしばらくした時期に、こんな内容の記事を掲載している(→掲載ページ)。
アルコール依存症の底つきについて考えてみる。
私の弁当ブログを断酒生活中心に開設し直し、このところ、小原庄助さんのブログをはじめ、あれこれの断酒ブログをサーファーしている。断酒ブログを読んでいると、多くの人たちが断酒を決意するまでに、壮絶な飲酒、断酒を経験されていることに驚かされる。
連続飲酒によるブラックアウト、幻覚症状、経済的、社会的破綻、家族の崩壊、断酒をはじめたことによってはじまる苛烈な禁断症状、抗酒剤の常用服用と不眠との戦いなどなど。
多くの人たちは、そういうアルコール依存による底つき状態を脱して断酒に成功している。
多くの断酒者が断酒の今を継続できているのは、もう2度とあんな地獄を味わいたくないという、依存の行き着くところ、底つき経験である。
翻って、私の場合を考えてみる。
これは以前にも書いたことだが、私にはまだ、アルコール依存による底つき経験がない。
私は、15歳頃から今日までの40数年間、ほとんど毎日アルコールを切らしたことはないが、仕事も家庭生活も社会生活もそれなりにこなしてきた。
若い頃には、2日酔いで仕事を休むということがたまにはあったが、この頃はそういうこともない。たいしたものではないが、社会的地位もある。
酒を飲んだくれて、妻や子らに暴力を振るったことはない。妻は「あんたは飲んで言葉の暴力を振るう」というかもしれないが、それは愚痴程度で、妻に罵詈雑言を浴びせるなどというものではない。
底つきの兆候があるとすれば、飲酒のために重ねてつくった多額の借金を妻に隠していることと、会社の健康診断で、医者からこれ以上飲み続ければ肝硬変で死ぬことになるといわれているのに飲み続けてきたことぐらいだろう。
私が、ここでいいたいこと、心配していることはこういうことである。
借金や医者からの警告が、断酒を継続しえている人たちの底つき経験に匹敵するほどに、これからの私の断酒の動機づけになりえるだろうか、私の断酒の意思を支えてくれるだろうかということである。
もし仮に、私が宝くじで1000万円を当てたとしたなら、断酒を継続できるだろうか。肝臓の数値が安定しても断酒を継続できるだろうか。私には自信がない。強烈な底つき経験がないからである。
それでもなおかつ、私が断酒を継続する意思を持ち続けるためにはどうすればいいのだろう。
断酒ブログをサーフィンしながら、この頃、そんなことをよく考える。が、答えはまだでない。
ま、あまりややこしいことはこれ以上考えないでいよう。とにかく、今は1日断酒あるのみ。
上の文章を読んでみると、私は、その頃、底つきというのは、アルコール依存によって社会的地位を失い家庭の崩壊を招くなど、これ以上の地獄はないという壮絶な経験をすることだと捉えていたことがわかる。
だから、そんな底つきを経験していない私が、これから先、一生涯にわたって断酒を継続することができるだろうかと自らに問いかけているのである。
■ 龍女ねえさんの「ドン底の違い」
ところで、最近、この「底つき」とアルコール依存の「否認」の関係について、大変興味あるブログ記事を読んだ。
maria龍女さんの「吐血混沌断酒日記」の「ドン底の違い」と題する記事である(→掲載ページ)。
龍女ねえさんは「底つき」についてこう書いている。引用しよう。
A・Aのいうところの底付きは、お酒をやめようと自己流でチャレンジしてる人がアレもやったコレもやった、でも結局すべてうまくいかず飲んでしまう・・ もう自力じゃどうやってもお酒をやめる事は不可能、とA・Aを頼ってきた時点が底付き。
これはお酒をやめる上ですっごく大切な事。
私個人が考える底付きはズバリ 「死」。現に自殺者の遺体の4割からアルコールが検出されてます。
死んでしまったら底も何も無い、て話だけどアル中の平均寿命は50歳代前半と短命。飲んでる量によってはもっとはるかに短い。それもお酒が原因で死ぬくらいなら死ぬ前の生活は死人も同様のはず。
そうなった時、本当に死ぬ一歩手前まできて奇跡的に何かの拍子に死なずに生還した瞬間。
私はこの時が底付きと考える。
アル中は底を突き抜けて逝ってしまうのが当たり前、たまたま生き延びた運のいい人は底付き体験をした人、もちろん底付きが万能ではないんだけど。
A・Aのいう底付き、私の考えてる底付き、どちらも間違いじゃないと信じてる。
この記事には、底つきについて、Yanadagagaさんがこんなコメントを寄せている。
免職、離婚、留置、病院など、このままいけば廃人か死かと自覚したときが底なんでしょうか。
■ 庄助さんの考える底つき
ブログ「アル中-アルコール依存症との戦い-」の庄助さんはこう書いている(→掲載ページ)。
私は、多くの大切なものを失って初めて目が覚め、酒をやめる決心がつき、現在に至っているが、世の中にはさほどたくさんのものを失わなくても酒がとまっている賢い方もいる。
「底」と感じる体験は人それぞれなんである。
ここまですべてを失いきって、まだ底つきませんかと思われる人が、失禁を体験して初めて底つきましたというケースもある。本当に人によって底は違うのだ。
しかし、少しばかり酒がとまりだすと、否認の感情が芽生え始める。
もしかして治ったか?
少しくらいならコントロール飲酒できるのでは?
これは、肉体の回復と共に、心は底から離れ始めているのである。そして再飲酒して壊れて、もう一度底を見ることになるが、このときの底は前より深くえぐれているのだ!
たぶん、これがアルコール依存症を進行性の病といわせる意味合いだと思っている。
人は嫌な体験を忘れることで、心の傷を癒すようにできているように思う。忘れることができなくとも、嫌な記憶は薄らいでいくものだ。本来、そうあるべきと思うが、こと酒害に関してだけは、忘れてはいけない体験なのだ。
意識しなければ忘れてしまう。
忘れると否認が芽生える。
忘れてしまいたい嫌な思いを掘り起こしてでも記憶に深く刻み込まなければ「底」は遠く離れてしまう。
なぜ、例会で酒害を語り続ける必要があるのか?
それは、おのれの「底を上げる」作業が必要なのだと最近感じている。
■ 底つきの誤解
ブログ「心の家路」の「アルコホーリクのひいらぎ」さんは「たったひとつの冴えないやり方-飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常-」で、底つき体験は随分誤解して理解されているとして、長文の記事を書いている(→掲載ページ)。一部を以下に引用しよう。
しかし、「底つき体験」とは何であるか。これはずいぶん誤解されているように思います。まず1つは、「社会の底辺のようなところへ落ちぶれることが底つきだ」という誤解です。おそらく「底」という言葉のイメージが底辺を想像させるのでしょうし、アル中という言葉にはそういう雰囲気が含まれているのでしょう。しかし、アル中さんがドヤ街にたどりつけば回復するわけではありません。どちらかと言えば、頑固に底つきしなかったがゆえに落ちぶれてしまったわけです。
大きなトラブルが起きることを「底つき」だと思っている人も少なくありません。例えば酒のせいで失職したり、離婚されたり、あるいは大きな病気にかかるなどなど。つまり「酒を止めよう」と思うきっかけになるような出来事が「底つき」だと思われているわけです。その出来事は大きなトラブル(入院など)かも知れませんし、小さなトラブル(健康診断の数値が悪い)かも知れません。
なぜそのような誤解が生じるのか考えてみます。するとどちらも「飲んでいた酒をやめるきっかけになる」という意味で使われていることが分かります。何かのきっかけがあって酒を止めた人たちが、「回復には底つきが必要」と聞かされます。当然その人達は、自分が現在飲んでいない以上は回復に向かっていると信じたいでしょう。そして、自分が酒をやめたきっかけを「あれが底つきだった(=だから私は回復に向かう条件が整っている)」としてしまったのでしょう。
もちろん「底つき」は落ちぶれることではなく、断酒を決意するきっかけでもありません。では「底つき」とは何なのか。
まず底つきのためには、何であれ「酒をやめる努力」が必要です。ほとんどのアル中さんは、酒をやめるために最初から何かを頼ろうとはしません。断酒のために人からああしなさい、こうしなさいと言われることを好まず、自力でやめようとします。その努力が成功しているうちは、底をつくことはできません。つまり「底つき」とは断酒の失敗からしか得られないものです。
中にはまったく自力で断酒できなかったという人もいます。精神病院に入院して物理的にアルコールから隔離されているとき以外はやめたくてもやめられなかった、と言います。失敗続きの人の底つきは実にシンプルです。
なまじ自分の力で断酒が成功している人のほうが底つきは難しいわけです。しかしやがて再飲酒というチャンスがやってきます。その時に、自分ではうまく断酒できなかったことを認めて別のやり方に切り替えることができれば、それが「底つき」になります。あくまで自己流にこだわれば、底つきのチャンスは次回の再飲酒に先延ばしになります。
中には再飲酒という失敗を犯さなくても、自己流の断酒の見込みの無さに気づける人もいます。しかしそういう人はわずかです。
問題をややこしくしているのは、少ないながら自己流で一生断酒できる人が存在していることです。この人たちは底つきなしで一生酒をやめきったわけです。その中には回復を遂げずに一生酒を我慢した人もいるでしょうし、底つきが不要な回復を得た人もいるのかもしれません。しかしいずれにせよ少数です。
大多数の人にとっては回復に「底つき」は不可欠です。それは、自分のやり方ではうまくいかなかった。だから(人からああしろ、こうしろ言われるのは気に入らないが、それでも反発心を抑えて)人の勧めに従ってみるしかないだろう、という「ある種の諦め気持ち」のことです。アル中さんにとって、人の指示に従うことは、酒を手放すことより難しいことです。多くの場合、自分で底つきをしたと思っても、まだまだ留保が大きく、自分のやり方を諦め切れていないものです。
■ 私の底つき
これらの記事を読んで思うことは、これまで、私は「底つき」について誤解してきたということである。
底つきのキーワードは「気づき」だと思う。いったん、アルコール依存の状態に陥れば、自らの力だけではその状態から脱するころができないことに気づくことである。それは、何度も何度も、断酒、禁酒を試みて失敗を繰り返し、はじめてわかることである。
その程度は人によって様々である。行き着くところまで行き着かなければ気づかない人もいれば、早い段階で気づく人もいるだろう。気づきを得るまでもなく断酒ができる人も中にはいることだろう、そういう人は幸いである。
私の場合は、酒を飲むために嫁さんに内緒の借金を重ね、医者に肝臓を治療する必要があると指摘されてもアルコールをやめられず、このままでは行き着くところまで行き着いてしまうと認識し、断酒会に頼ったときが底つきだったのだ。
まだ、底についてないなどということはない。立派に底をついているのである。
問題は、この底つきが、これからの私の断酒の動機付けとして、どの程度の効果を発揮するかである。
壮絶な底つきを経験した人は、もう二度とあのような地獄はみたくはないと思うから、その底つき経験が将来においても、断酒継続の強力な牽引役を果たすことだろう。
私の場合はどうか、今はまだいい。底つき経験は私の記憶に真新しい。しかし、人は忘れる動物である。
年月の経過は人の記憶の輪郭をだんだんにぼやけさせ、遂には忘却のかなたへと運び去る。そのときにも、私は今の底つき経験を断酒継続のばねにすることが果たしてできるだろうか。
庄助さんのいわれるように、だからこその断酒会である。底つきの経験を何度も何度も掘り起こし、その苦い思いを味わい直して、断酒継続の糧にしなければならない。底つき経験を風化させないための断酒会なのである。
「底つき」と「否認」(その2)に続く
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