断酒83日目 石原裕次郎を歌う
■ 断酒83日目
今日(1月28日(月)は断酒83日目。
昨日、断酒82日達成。たかが82日、されど82日。1日断酒あるのみ。
■ 断酒3ヶ月が近づいてきたよ
まずは、断酒をはじめてから当初の目標にしていた3ヶ月が近づいてきた。長かったようでもあり、短かったようでもある。
体調は随分よくなってきたと思う。
詳しくは断酒3ヶ月を達成してから書きたいと思っているが、
1 黄色がかっていた尿が正常に戻ってきた。
2 背中のチリチリした鈍痛が消えてきた。
3 手足の先の痺れがとれてきた。
4 むくみが消えてきた。
5 下痢便が硬くなってきた。 など目にみえてよくなってきた。
相変わらずなのはおっぱいの痒みと倦怠感。これらの症状は、肝臓が悪い兆候である。数値を調べてみなければわからないが、ひょっとすると、まだ、肝臓の数値にあまり改善されていないのかもしれない。
しかし、それはないものねだりというものだ。まだ、たったの3ヶ月である。これまで何十年と痛めつけてきた肝臓が、そう一朝一夕によくなるなんてことがあるはずがない。
まあ、それにしても飲酒時に比べると、雲泥の差である。
背中の鈍痛や全身の倦怠感に重く包まれた目覚めの中で、体を引きずるようにしてトイレに入り、下痢便をしながら、「このままではダメや。もう、今日こそ酒を控えよう。せやないと死んでまう!」と深くため息をついていたあの日々が遠くに思われる。
しかし、あのときの苦しみを忘れてはならないと強く思う。再度、飲みはじめたならば、あの苦しい日々が再び訪れる、いや、もっと悪化して私の体と心を蝕むことになる。
アルコール依存は不治の病、死に向かって進行する病である。そのことをしっかり脳裏に刻みつけておこうと思う。
■ ジャンカラで嫁さんが私を呼んでいる
石原裕次郎がアルコールの毒に侵されて、若くしてこの世を去ったことはよく知られている。
私は、このブログの「アルコール依存な人々」(→掲載ページ)のコーナーにも、そろそろ石原裕次郎のアルコール依存や死因のことを書こうと思っていた。
そんな折、昨夜の夕方、子らと夕食を終えた午後8時前のことである。友達と岩盤浴付き温泉に遊びにいっていた嫁さんから電話がかかってきた。
「ねえ、今、茨木駅近くのジャンカラで、一人カラオケしてんねん。出てけえへん?」
聞くと、その友達と何かのことで議論になって、危うくそれが喧嘩に発展しそうになった。で、早く別れて、ちょっとムシャクシャするからカラオケでウサをはらしているのだという。
「そのついでに呼んであげたんやから、ありがたく思ってよ」
(ついではないやろ)とは思ったが、私もカラオケが嫌いではない。
(今日は石原裕次郎でせめたろ)そう思ってさっそく出かけることにした。
■ 穴があったら入りたい思い出
人はなんでそれがそんなに気恥ずかしいの?と不思議に思うだろうが、当人にとってはそのことを思い出すたび、穴があったら入りたくなるような思い出を、誰しもいくつか持っているものだ。
そういう思い出の一つ。私が高校を卒業して大阪のある自治体に就職し、看護学校の事務に配属されたときのこと。
看護学校の文化祭でのことだった。私は、得意満面で下手なギターをかき鳴らしながら、石原裕次郎の「二人の世界」を歌ったのである。
私は、当時、19歳。看護学生は18歳から20歳あたり。皆、私と似たような年頃だった。看護学生に、私はカッコいいところを見せたかったのだ。
君の横顔 ステキだぜ
すねたその目が 好きなのさ
もっとお寄りよ はなれずに
小さなフロアのナイトクラブ 夢の世界さ
習い始めの下手なギターに下手な歌。よくもまあ、壇上で一人、足を組みながら恥ずかしげもなく得々と歌ったものである。
それにしても冷汗三斗、ああ、恥ずかしい。今でもあのときのことを思い出すたび、穴があったら入りたい、そう思う。
■ 二人の世界
ジャンカラにいくと、嫁さんがノンアルコールビール、アサヒのドライゼロ(→掲載ページ)を2本買ってくれていた。
ところで、昨夜の子らとの晩ご飯はカレー。私の場合、飲酒していた頃のカレーのお供はなんといってもビールだった。
ビールのないカレーなんて、エビ天の入っていない天丼みたいなものだ。
で、昨夜、私は、カレーを作りながら、アサヒのドライゼロを2本、カレーをあてに2本、都合4本飲んだ。
ノンアルコールビールを飲み始めた当初は、2本が限度だと思っていたが、この頃は、ときに3、4本飲むときがある。あまりいい傾向ではない。
ジャンカラでまたもやドライゼロ。もうカレーとノンアルコールビールで腹がタポンタポンしていたが、せっかくなのでそのビールを飲んだ。
飲みながら、まず私が歌ったのは、昔懐かしい裕次郎の「二人の世界」。
カラオケの画面に若かりし頃の裕次郎が映し出されている。何かの映画の場面である。相手役は浅丘ルリ子。若い。競演の二谷英明がこれまた若い。
いきものががりのヒット曲メドレーを嫁さんが歌って、次に私が歌ったのが「夜霧よ今夜もありがとう」。
画面に、これまた、裕次郎若かりし頃の映画。相手役の女優は北原三枝。今の裕次郎の奥さん、石原まき子さんである。
次に歌った「嵐を呼ぶ男」は、裕次郎がドラマー役でヒットした映画の主題歌で、相手はもちろん北原三枝。
その昔、裕次郎が大好きな先輩が、飲むとカラオケでいつもこの歌を歌っていたっけ。
長いセリフがあって、そのセリフを裕次郎になりきって身振り手振りで歌うものだから、皆でやんやの大喝采をおくったものだった。
「赤いハンカチ」「北の旅人」「霧にむせぶ夜」「錆びたナイフ」「粋な別れ」、嫁さんと交互に知っている歌を次から次へと歌った。
あの頃の低音の魅力といえばフランク永井が有名だが、裕次郎のあのしっとりした低音も泣かせたものである。
「あんた、今日は古い歌ばっか、それも裕次郎ばっか。どうしたんよ」
自身の歌う歌にも私の裕次郎の歌にも食傷気味になった嫁さんが、「もう帰ろう」といいだしたのは、日付変更線に入ろうかという12時前のことである。
私は、店を出ると、すっかり裕次郎になりきっていて、両手をポケットに無造作に突っ込み、粉雪の舞い始めた夜空をややはすかいに見上げながら、肩をそびえたて、こう言ったのだった。
「今夜はやけに冷えるなあ。夜風が俺を泣かせるぜ」
そんな私をみて、嫁さん曰く「ばっかみたい」。
嫁さんはそんな私に腕を組んではくれないのだった。
そういえば、嫁さんと腕を組んで歩いたのは、もう何十年前のことだっけ。
兄、石原慎太郎の筆で、初めて明かされた石原裕次郎のすべて。たったひとりの弟の光と影。襲いかかる病魔との闘いの日々が克明に描かれている(1999年6月、幻冬舎)。
(2012.5 青志社)
妻、石原まき子(元女優、北原三枝)さん談
「村松先生のインタビューに二日間ご一緒させていただき、これまでの私たち夫婦の人生をお話させていただきました。
幸せと絶望と希望、本当に波瀾万丈でいろいろあった裕さんとの人生でした。
そうした日々をありのままお話し致しました。
村松先生の人柄がにじみ出たあたたかい文章は、素の裕さんが活き活きと登場していて、とても感動致しました」
電子出版プラットフォーム「パブー」から、田中かわずのペンネームで、400字詰め原稿用紙で10枚程度の短編小説「桜」「みっちゃんへ」「ピヨピヨ」「ベロの辛抱」、中編小説「おばあちゃんへの贈り物」を電子出版しました。無料です。よかったら読んでね。
エッセイ「オレのリハビリ日記」をパブーから有料で電子出版しました。300円です。よかったら買って読んでね。
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今日(1月28日(月)は断酒83日目。
昨日、断酒82日達成。たかが82日、されど82日。1日断酒あるのみ。
まずは、断酒をはじめてから当初の目標にしていた3ヶ月が近づいてきた。長かったようでもあり、短かったようでもある。
体調は随分よくなってきたと思う。
詳しくは断酒3ヶ月を達成してから書きたいと思っているが、
1 黄色がかっていた尿が正常に戻ってきた。
2 背中のチリチリした鈍痛が消えてきた。
3 手足の先の痺れがとれてきた。
4 むくみが消えてきた。
5 下痢便が硬くなってきた。 など目にみえてよくなってきた。
相変わらずなのはおっぱいの痒みと倦怠感。これらの症状は、肝臓が悪い兆候である。数値を調べてみなければわからないが、ひょっとすると、まだ、肝臓の数値にあまり改善されていないのかもしれない。
しかし、それはないものねだりというものだ。まだ、たったの3ヶ月である。これまで何十年と痛めつけてきた肝臓が、そう一朝一夕によくなるなんてことがあるはずがない。
まあ、それにしても飲酒時に比べると、雲泥の差である。
背中の鈍痛や全身の倦怠感に重く包まれた目覚めの中で、体を引きずるようにしてトイレに入り、下痢便をしながら、「このままではダメや。もう、今日こそ酒を控えよう。せやないと死んでまう!」と深くため息をついていたあの日々が遠くに思われる。
しかし、あのときの苦しみを忘れてはならないと強く思う。再度、飲みはじめたならば、あの苦しい日々が再び訪れる、いや、もっと悪化して私の体と心を蝕むことになる。
アルコール依存は不治の病、死に向かって進行する病である。そのことをしっかり脳裏に刻みつけておこうと思う。
■ ジャンカラで嫁さんが私を呼んでいる
石原裕次郎がアルコールの毒に侵されて、若くしてこの世を去ったことはよく知られている。
私は、このブログの「アルコール依存な人々」(→掲載ページ)のコーナーにも、そろそろ石原裕次郎のアルコール依存や死因のことを書こうと思っていた。
そんな折、昨夜の夕方、子らと夕食を終えた午後8時前のことである。友達と岩盤浴付き温泉に遊びにいっていた嫁さんから電話がかかってきた。
「ねえ、今、茨木駅近くのジャンカラで、一人カラオケしてんねん。出てけえへん?」
聞くと、その友達と何かのことで議論になって、危うくそれが喧嘩に発展しそうになった。で、早く別れて、ちょっとムシャクシャするからカラオケでウサをはらしているのだという。
「そのついでに呼んであげたんやから、ありがたく思ってよ」
(ついではないやろ)とは思ったが、私もカラオケが嫌いではない。
(今日は石原裕次郎でせめたろ)そう思ってさっそく出かけることにした。
■ 穴があったら入りたい思い出
人はなんでそれがそんなに気恥ずかしいの?と不思議に思うだろうが、当人にとってはそのことを思い出すたび、穴があったら入りたくなるような思い出を、誰しもいくつか持っているものだ。
そういう思い出の一つ。私が高校を卒業して大阪のある自治体に就職し、看護学校の事務に配属されたときのこと。
看護学校の文化祭でのことだった。私は、得意満面で下手なギターをかき鳴らしながら、石原裕次郎の「二人の世界」を歌ったのである。
私は、当時、19歳。看護学生は18歳から20歳あたり。皆、私と似たような年頃だった。看護学生に、私はカッコいいところを見せたかったのだ。
君の横顔 ステキだぜ
すねたその目が 好きなのさ
もっとお寄りよ はなれずに
小さなフロアのナイトクラブ 夢の世界さ
習い始めの下手なギターに下手な歌。よくもまあ、壇上で一人、足を組みながら恥ずかしげもなく得々と歌ったものである。
それにしても冷汗三斗、ああ、恥ずかしい。今でもあのときのことを思い出すたび、穴があったら入りたい、そう思う。
■ 二人の世界
ジャンカラにいくと、嫁さんがノンアルコールビール、アサヒのドライゼロ(→掲載ページ)を2本買ってくれていた。
ところで、昨夜の子らとの晩ご飯はカレー。私の場合、飲酒していた頃のカレーのお供はなんといってもビールだった。
ビールのないカレーなんて、エビ天の入っていない天丼みたいなものだ。
で、昨夜、私は、カレーを作りながら、アサヒのドライゼロを2本、カレーをあてに2本、都合4本飲んだ。
ノンアルコールビールを飲み始めた当初は、2本が限度だと思っていたが、この頃は、ときに3、4本飲むときがある。あまりいい傾向ではない。
ジャンカラでまたもやドライゼロ。もうカレーとノンアルコールビールで腹がタポンタポンしていたが、せっかくなのでそのビールを飲んだ。
飲みながら、まず私が歌ったのは、昔懐かしい裕次郎の「二人の世界」。
カラオケの画面に若かりし頃の裕次郎が映し出されている。何かの映画の場面である。相手役は浅丘ルリ子。若い。競演の二谷英明がこれまた若い。
いきものががりのヒット曲メドレーを嫁さんが歌って、次に私が歌ったのが「夜霧よ今夜もありがとう」。
画面に、これまた、裕次郎若かりし頃の映画。相手役の女優は北原三枝。今の裕次郎の奥さん、石原まき子さんである。
次に歌った「嵐を呼ぶ男」は、裕次郎がドラマー役でヒットした映画の主題歌で、相手はもちろん北原三枝。
その昔、裕次郎が大好きな先輩が、飲むとカラオケでいつもこの歌を歌っていたっけ。
長いセリフがあって、そのセリフを裕次郎になりきって身振り手振りで歌うものだから、皆でやんやの大喝采をおくったものだった。
「赤いハンカチ」「北の旅人」「霧にむせぶ夜」「錆びたナイフ」「粋な別れ」、嫁さんと交互に知っている歌を次から次へと歌った。
あの頃の低音の魅力といえばフランク永井が有名だが、裕次郎のあのしっとりした低音も泣かせたものである。
「あんた、今日は古い歌ばっか、それも裕次郎ばっか。どうしたんよ」
自身の歌う歌にも私の裕次郎の歌にも食傷気味になった嫁さんが、「もう帰ろう」といいだしたのは、日付変更線に入ろうかという12時前のことである。
私は、店を出ると、すっかり裕次郎になりきっていて、両手をポケットに無造作に突っ込み、粉雪の舞い始めた夜空をややはすかいに見上げながら、肩をそびえたて、こう言ったのだった。
「今夜はやけに冷えるなあ。夜風が俺を泣かせるぜ」
そんな私をみて、嫁さん曰く「ばっかみたい」。
嫁さんはそんな私に腕を組んではくれないのだった。
そういえば、嫁さんと腕を組んで歩いたのは、もう何十年前のことだっけ。
兄、石原慎太郎の筆で、初めて明かされた石原裕次郎のすべて。たったひとりの弟の光と影。襲いかかる病魔との闘いの日々が克明に描かれている(1999年6月、幻冬舎)。
(2012.5 青志社)
妻、石原まき子(元女優、北原三枝)さん談
「村松先生のインタビューに二日間ご一緒させていただき、これまでの私たち夫婦の人生をお話させていただきました。
幸せと絶望と希望、本当に波瀾万丈でいろいろあった裕さんとの人生でした。
そうした日々をありのままお話し致しました。
村松先生の人柄がにじみ出たあたたかい文章は、素の裕さんが活き活きと登場していて、とても感動致しました」
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