このオレが何をしたというんや! (その②)
その①では、交通事故にあって病院に運ばれるまでのことを書いたが、その②では、入院の翌日に行われた手術のことを書く。
翌日は手術である。午前中はまんじりともせず過ごし、午後3時頃、3~4人の看護士がやってきて、私のを手術衣に着替えさせた。長らしい看護士が、他の看護士に老練に指示を飛ばす。
「両足が折れているから気をつけてね。Aさん、あんたは腰を持ち上げて。Bさん、あんたは両足のももを支えてね。Cさん、あんたは背中を抱き上げて。私は腕をもってるから。さあ、いくわよ。ゆっくりね」
私は力のかぎり絶叫した。おさまっていたかにみえた足の痛みが、昨日の事故を再現するかのように私の脳髄を直撃したのである。
体制を元に戻してストレッチャーに横たえられたちょうどそのとき、嫁さんが病室に入ってきて私に目くばせし、手にこぶしをつくって「がんばりや」と声をかけてくれた。
手術は右足からである。
今朝、主治医がやってきてこう告げたのである。
「右足は3か所折れ、左足のくるぶしの骨が粉砕気味に骨折してる。それに右足はいわゆる開放骨折で裂傷もあるから、折れたところにギブスを巻くと傷口が化膿する恐れがある。それを避けるため、創外固定といって、足の外側から骨を固定する手術をしようと思うんやがどうか」
私はまな板の鯉同然で、医師の指示に従うほかない。その説明に私はうなずいた。
手術室は、全体が明るいうす茶系の色に彩色されただだっぴろい部屋で、患者の気持ちを和ませる配慮からだろう、室内に穏やかな音楽が流れていた。美空ひばりの「川の流れのように」である。
室内の中央の天井に、テレビなどで手術の画面によく見かける、UFOを浮かべたような丸い白色燈の群れが、私をおびき寄せるようにこうこうと光輝いている。
ちょうどその白色燈の真下に手術用のベッドがあり、私はそこに移された。
白衣とマスクに身を包んで、目だけを光らせた医師や看護士は、まったく秩序だってそつがない。私にとっては身を縮ませる今日の手術も、彼らにとっては単なる毎日の職業生活の一部に過ぎないのである。
足の洗浄、点滴の確認その他あれこれの作業が続き、最後に私の両手は布様のもので手術台から延ばされたアームに縛りつけられた。
看護士から、今日の手術は下半身麻酔だと聞かされていたから、脊髄に大きな麻酔注射を打たれ、その痛みに耐えれば、後は足を切開したり骨を削ったりする音や縫合する音を、子守歌がわりに聞いていればいい、我慢するのは注射のときだけだと私は思っていた。
そのことを看護士にも確かめていたのだが、手術が始まると、私のその思いは虚しく打ち砕かれた。麻酔はいわゆる局部麻酔で、切開する部位のあたりにわずかに施されるにすぎなかったのである。
手術は、折れた骨を固定するために、まず右足に6本の鉄の棒を打ち込み、その棒を足の外側からわっかのような器具で相互に連結させるというものだった。
1本目の鉄棒を打ち込む部位に麻酔を施すことから手術は始まった。
何本かの注射が、切開する部位の周辺に打たれ、麻酔がきいたとみるやその部位の肉を切開していく。
麻酔の効いている部位はいい。切開が麻酔の効いている部位とそうでない部位の境目あたりにくると、麻酔の効いていない部位の神経を刺激するのだろう、飛び上がらんばかりに痛む。まるで足が切断されるかのようだ。私はその痛さに呻き、そして叫んだ。
切開が2本目にかかったとき、私の叫び声を聞いて主治医がこういった。
「あんた。女、子供でもこうして同じように手術して、我慢しているんやで。男のあんたが我慢できんはずないやろ。がんばりや」
(女が、子供がどうしたというんや。女や子供に耐えられたって、このオレにこの痛みが耐えられるか! それに女、子供という物言いは差別やぞ!)
私はうめきながら、心の中でそう罵ったものだ。
看護士が私の口に濡れタオルをはさんだ。私はその濡れタオルをくわえ、布でくくり付けられた両手を強く握りしめて手術の痛みに耐えに耐えた。
主治医は、切開する部位の周辺を丹念に探って部分麻酔を施し、麻酔が効いたとみるや、のこぎり様の器具をシューシューとうならせながら、足を切開していく。
またもや器具が麻酔の効いている部位とそうでない部位あたりで神経を刺激し、体が根こそぎ引きちぎられるような痛みに、私は体を海老ぞらせて吠えた。
「ああ、もう、堪忍してくれ!」
看護士が私の右手を握りしめてくれる。私は咥えていたタオルを吹き飛ばしながら訴えた。
「先生。堪忍や。本当にもう堪忍や。このオレが、一体何をしたというんや!」
私に許された抵抗は、もう哀願することだけである。
しかし、手術は非情にも私のその声を無視して延々と続いた。1つの部位が終わるとすかさず切開は次の部位に移る。肉を裂き、骨に穴を穿ち、そこに鉄棒を打ち込む作業が続いていくのである。
10数年前に膵臓の検査をしたときのことを思い出した。膵胆肝造影といった。
胃カメラを胃から腸に送り込み、その先端あたりで造影剤を注入して膵臓の動きを見るのである。
胃カメラが胃から腸に挿入されるとき、腸の粘膜を刺激するのだろう、私は今だ勝手知らない痛みに呻いた。内臓が掻きむしられるようだった。
腸から膵管に向けて造影剤を噴射するときも身をよじるような痛みを感じたものだ。
あれはなんとも苦しい検査だった。聞くところによると、脳造影検査についで苦しい検査だということだった。
しかし、この日の足の手術はあの比ではない。私はその痛みに叫び、泣き、哀願した。私はその間、この世のあらゆるものを恨みに恨んで身も世もなくのたうち回った。
喉はカラカラに干上がり、唇は昨日の事故後と同様にカサカサに毛羽立っている。
もう少し、もう少しやからがんばりやと繰り返すその言葉とは裏腹に、とめどなく続いた手術は、午後6時前にやっと終わった。始まってから3時間近くがたっていた。
「これで終わりやで」との主治医の声が、脱力した私の脳裏に空虚なこだまのように鳴り響いた。手術はやっと終わったのだ。
手術の成功に安心したのだろう、私の足を消毒し撫でさすって、手術の結果を確かめながら、これまでの緊張を消して主治医は、看護士と盛んに軽口を叩いている。
「今年の忘年会には、ビール3本、差し入れたるわ」
「え、先生、たったの3本。それはないですよ」と看護士。
「それじゃ発泡酒で4本にしようか」
「それじゃ、金額一緒ですやん。先生のケチ」
「アハハ…」
私は手術室内の手術の後の弛緩した空気の中で、やっと安堵のため息をついた。本当に、本当に手術は終わったのである。
ストレッチャーに移され病室のベッドに帰ると、嫁さんが「よう頑張ったね」と声をかけてくれた。
「ああ、痛かった。こんなん初めてや」と私。
嫁さんが柿を差し出してくれた。熟柿である。甘くてうまい。しかしその甘さもひとときのことだった。
私は何切かを食べた後、思い出したのである。
(まだ左足の手術が残ってるやんか!)
(続くかもしれない)
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