アルコール依存な人たち(岡八郎 前編)
50歳を越え、関西に住み続けている人で、岡八郎(65歳の誕生日に、芸名を「岡八朗」と改名したが、ここではより親しみのある「岡八郎」の名前を使う)を知らない人はすくないだろう。
40代になれば「その名前、どっかで聞いたことがあるけど、何してる人やったっけ?」と聞き返す人がぐっと増えてきそうな気がする。
20代、30代になれば「誰? そのおっちゃん」といったところか。
1938年(昭和13年)4月生まれ、2005年(平成17年)7月、肺炎による呼吸器不全で没、67歳。
岡八郎は、「奥目の八ちゃん」の愛称で親しまれ、花紀京との2枚看板で、吉本新喜劇黄金時代を支えた喜劇役者だった。
当時、岡八郎とともに吉本新喜劇で活躍した役者には、船場太郎、山田スミ子、原哲男、木村進、間寛平などがいる。
漫才のオール阪神・巨人、おかけんた・ゆうたは、岡八郎の愛弟子である。
岡八郎は、1959年(昭和34年)、師匠である花菱アチャコの薦めで吉本新喜劇に第1期生として入団、一時、漫才に転向したが、役者の道を諦めきれず再び新喜劇に復帰して座長を務め、以降、1989年(平成元年)にアルコール依存症などが原因でリストラ退団するまで、吉本新喜劇1本に役者生命をかけた。
岡八郎は「1にも2にも3にも健康法は酒です」と本人が語るほどの酒好きで、ご他聞に漏れずアルコール依存症を患ったが、晩年には断酒会に入会して死ぬまで酒を断った。
■ 娘から見た岡八郎
岡八郎は尼崎に生まれ、生涯、この地を離れることなく、尼崎を誇りとして生きた喜劇役者だったが、その人となりについて、ゴスペル歌手として活躍されている、岡八郎の娘の市岡裕子さんに語ってもらおう。
父は根っからの喜劇役者でした。それも、お客さんの反応を直接感じられる舞台が何より好きでした。幼いころ出屋敷界隈の演舞場で見たチャンバラなどの大衆演劇がその原点。尼崎の人間であることを誇りに思っていて、離れようとしませんでした。母との結婚式も貴布禰神社だったそうです。
大部屋俳優をした後、21歳で吉本に入り、浅草四郎さんと「四郎八郎」で漫才をしましたが、どうしても新喜劇がしたいと、コンビを解消。27歳で新喜劇に入り、30歳で座長になりました。宮内町の家から毎日阪神電車で梅田と難波、京都の劇場に通い、10日ずつ公演して、合間にはテレビなどの仕事。私が子供の頃はテレビでしか会えないぐらい忙しかったですね。
根はシャイで、口数も少なく、子供にすれば怖い父でした。仕事は家に持ち込まない人でしたが、台本が面白くなかったりすると、「こんなもんやれるか」と荒れることもありました。母も芝居の経験があったので、「どうしたいの」となだめながら、父が寝た後にお弟子さんと2人で台本に手を入れたりして。
お酒の問題やリストラ、癌など50歳以降は大変なこと続きでしたが、昨年7月の葬儀には950人もの人が来てくれて。出棺では「八ちゃん、ありがとう!」って拍手が沸き起こったんです。辻本茂雄さんが「新喜劇は僕らがこれから守っていきます」とおっしゃってくれたのが、本当にうれしかったですね。(談)
(尼崎芸人名鑑から引用→参照)
また、昨年(2012年)10月に、吉本興業創業100周年記念として、岡八郎と花紀京の出会いや若手時代の苦労を描いた「これで誕生!吉本新喜劇」が公演され、岡八郎を千原せいじが、花紀京を内場勝則が演じたが、この公演をみて、市岡裕子さんは、次のように語られている。
千原せいじさん演じる亡父・岡八郎、内場勝則さん演じる花紀京さん。私の知らない青春時代の父に、せいじさんを通して舞台で再会したような気持ちでした。
お芝居のあらすじは、「国民的人気漫才師、横山エンタツ氏の息子として生まれた花紀京は、自らも芸人の道を歩みだしていた。時は昭和35年(1960年)。折しも、吉本が演芸小屋「うめだ花月」を再開し、自社の芸人を育てようとしていた時期。そんな花紀の前に「研究生」として現れたのが、一歳下の岡八郎。片や、芸人の血筋のサラブレッド、片や、大工の息子。二人は、互いの中に自分にはない才能を羨望しつつ、ライバルとして意識しあう仲に・・・。」
父は若い頃、真面目で、硬派、しかし、とびぬけた面白さがあったと周りの人に聞きました。私が生まれる前の父を私は勿論知りません。しかし、多分、父はこんな風に、ちょっと照れ屋で、お芝居に関しては、真面目にお客さんを笑わすために、必死で花紀さんと頑張ってきたんだろうなと、懐かしいような、嬉しいような、ちょっとしんみりとした気持ちになりながら、舞台を拝見させて頂きました。
千原せいじさんは亡父には一度も出会った事がないそうです。しかし、頑張って父を演じてくれていました。内場さんは芝居が上手い!最後、うどん屋のシーンで花紀さんのメイク、衣装で出てこられた時は、そっくりで驚きました!
(市岡裕子さんのオフィシャルブログから引用→参照)
岡八郎の人柄が偲ばれる。
■ 岡八郎のギャグ
私は、愛媛県の山奥に生まれ育ったが、中学生の頃に、よく土曜、日曜日には、テレビで吉本新喜劇を観た。いつも定番のギャグの連発だったが、子ども心にもそれがおもしろかった。
いつも食い入るように観て、いつものギャグでいつものようの大笑いしたことが懐かしく思い出される。
岡八郎の演技はギャグの宝庫だった。こんなギャグが懐かしい。
・ 観客に尻を向けて人差し指でその尻をかき、かいた指を鼻にもっていって顔をしかめて「くっさー!」。
・ 大きな自信ありげな声で「オレに隙があったらな、どっからでもかかって」そういった後、やや間をおいて、一転、逃げ腰になって「こんかい!」
・ 目を栓抜き代わりにして、ビールの栓を開けるギャグや、本や手紙に目をひっつけて読むギャグ。
・ 困ったときや驚いたときに、両手を広げて「オーノー」というアクションをとるギャグ。
・ 相手を茶化すのに「えげつな~」「いやらし~」と強調するギャグ。
・ 人情話で舞台は涙の場面。奥目の八ちゃん号泣とみせかけ「がお~」とずっこけるギャグ。
・ 悪役がからんできて凄みをきかせたときに、八ちゃん曰く「オレはこうみえても、(間を置いて)学生時代・・・ピンポンやっとったんや」で皆んながずっこける。
・ 同じく悪役にからまれて、自信ありげに「いうとくけど、空手やっとったんや・・・通信教育やけどな」でみんなずっこける。
・ 初対面の女性にいきなり「○○さん、僕と結婚してください」。その後で「僕はきれいな女性を見ると、結婚を申し込むシステムになっているんです」でみんながずっこける。
■ 岡八郎の私生活
しかし、舞台での華やかさとは対照的に、私生活では岡八郎には不幸なことが多かった。八郎は奥さんと娘の裕子さんと弟の4人家族だったが、1980年(昭和55年)、事業に失敗した奥さんがうつ病で自殺する。
この頃から、岡八郎は、ますますアルコールに溺れるようになり、一家は崩壊の道をたどり始めた。
アルコール依存症は役者としての八郎にも影響を与えはじめ、1989年(平成元年)には、吉本新喜劇をリストラ退団、以後、俳優としての道に入るが、1993年(平成5年)に胃がんの手術、1995年(平成7年)には急性膵炎、1996年(平成8年)には転倒による脳挫傷を負うという悲運に出会う。
胃がんはさておいても、急性膵炎、脳挫傷は明らかにアルコール依存症に起因したものだったろう。
八郎が脳挫傷の後遺症に苦しめられている最中、母親の死、父親のアルコール依存という荒れた家庭の中で、同じく酒に溺れていた息子が、30歳という若さで肝硬変により死亡。
残された娘の裕子さんは、父親から逃れるように渡米。八郎は1人で病魔と闘うことになった。
(後半に続く)
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