官兵衛、毛利と和議を結ぶ(その①)
(先週の本能寺の変)
■ 先週の「軍師官兵衛」
先週の「軍師官兵衛」は、本能寺の変が主題でした。
信長は、「生きるも死ぬも一度限り、存分に生きたぞ」そういって、焼け落ち始めた本能寺の奥深くで、自らの命を絶ちます。
一方、長谷川宗仁から、いち早くこの凶報を受け取った官兵衛は、泣き崩れる秀吉に対して、「殿、ご運が開けましたぞ!」と秀吉に奮起を促すのでした。
信長が光秀の凶刃に倒れたとの報は、まだ、毛利方には届いていません。
官兵衛は、どうすればそのことが毛利に知れるまでに、毛利と手をうち、後背からの憂いなくして、京に引き返すことができるかに知恵を絞ります。
そこで、官兵衛が頼ったのは、毛利の外交僧、安国寺恵瓊でした。
安国寺恵瓊といえば、信長の絶頂期にあって、後の信長の死を予言したことで有名です。
本能寺の変からさ遡ること10年前、天正元年(1573年)12月122日付、児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状に、こう記したのです。
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
この書状にもあるように、安国寺恵瓊は、信長の死を予言するとともに、秀吉が藤吉郎と名乗っていた、織田の武将の中にあって、まだ山のものとも水のものとも知れないときから、その力量を見抜いていたのでした。
官兵衛は、安国寺恵瓊ならば、この秘事を打ち明けても大丈夫だと判断します。
急ぎ、恵瓊に面談を求めた官兵衛はいうのでした。「毛利の本領は安堵いたす。早々に和議を結びたい」
恵瓊答えて曰く「本領安堵とな。官兵衛殿、なぜ、そのように和議を急ぎなさる」
ここにきて、官兵衛は、素直に信長が光秀に本能寺で討たれたことを恵瓊に告げ、そしていいます。「きたる天下は秀吉様が握ります。ここは、毛利としても秀吉様に恩をうっておくのが、得策ですぞ」
恵瓊はしばらく黙考したうえ、こう答えるのです。「それはおもしろい。力になり申そう。さては、まず、清水宗治の説得ですな」
清水宗治は毛利にとっては外様です。生き馬の目を抜くこの下克上のこの時代にあって、主君を裏切ることは、同族や領地を守るためには、そう非難に値することではありませんでした。
清水宗治とて立場は同じこと。孤立無援の中で、秀吉に寝返ったからといって誰も宗治を非難しないのみならず、宗治にとって主君ともいえる小早川隆景は、宗治の命を惜しんで、宗治に織田方への寝返りをも慫慂していたのでした。
しかし、節義を重んじる宗治は、このような小早川隆景に深く恩義を感じ、毛利に殉じる強固な意志を持っていました。
小船を駆って清水宗治にあった恵瓊は、信長の死を秘したまま、宗治にこういいます。「貴殿が腹を切れば、秀吉は、城兵の命を全て救い、毛利の本領を安堵すると約束してござる」
三木城の兵糧攻めの折にも、秀吉は、城主、別所長春とその一族の命と引き換えに、城兵の命を救っています。その前例を知っている宗治は、この恵瓊の提案を受け入れ、従容として小船の上で腹を切るのでした。

(官兵衛、毛利と和議を結ぶ(その②)に続く)
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