中国大返し
(7月27日の「軍師官兵衛ー中国大返しー)
■ 毛利との和睦
先週(20日)の軍師官兵衛は、官兵衛がまだその事実を知らない、毛利の外交僧、安国寺恵けいに、信長が光秀に誅されたことを告げるという挙に出て、毛利を味方につけ、早々に毛利と和睦を結ぶと、一路、中国大返しを開始するところでおわりました。
毛利も光秀に呼応して、兵を挙げるなら、秀吉は光秀と毛利に挟撃されて、それこそ窮地に立たされるところでしたが、「天下は臨まない」という毛利家の家訓を忠実に守ろうとした小早川隆景は、秀吉の勝利に毛利家の今後をかけたのでした、
これで、秀吉には後顧の憂いがなくなりました。1日でも早く京に取って返し、光秀を討つ者が天下を制することができます。さあ、いよい歴史に名高い中国大返しです。
(月岡芳年画「高松城水攻築堤の図」(岡山市立中央図書館蔵)
(小早川隆景ー鶴見辰吾ー)
■ 中国大返しのはじまり
兵士たちの引き返す沿道には、おにぎりや飲料水が等間隔に用意され、秀吉軍は京に向けて駆けに駆けました。
この中国大返しが、どのような行程で行われたのかは、実は定かではありませんが、秀吉が高松城から岡山に拠点をもつ沼城に引き返したのは、天正10年(1582年)6月6日とする説が有力です。
この説にしたがえば、沼城から姫路城までは約770ロメートルの道のりですから、秀吉が姫路城に帰還したのは6月7日夕方ということになります。
そして、秀吉のもともとの本拠地、姫路城に到着した秀吉軍は、ここで6月9日朝までとどまり、休養をとっています。
この間、秀吉は、四方の武将に書簡を送りました。
の書簡には「上様(信長)ならびに殿様(信忠)いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」と虚偽の事実が書かれ、続けて「福富平左衛門が比類ない働きをした。めでたい。自分も早く帰城する」などという芸の細かいところも見せています。
■ 織田勢はこのとき
特に秀吉が意を用いたのは、摂津衆の動静ですが、ここで、この時点での四囲の織田勢の状況を簡単にまとめておきましょう。
京、大坂にもっとも近かったのは、三好康長・蜂屋頼隆・津田信澄とともに、長宗我部元親と戦うために、大坂でで四国への渡海作戦にとりかかっていた、信長の3子、神戸信孝と織田の宿将丹羽長秀です。
しかし、信孝と長秀は光秀を討つには最も有利な位置にありましたが、信長横死の緘口令が兵士間に徹底できず、兵の多くが逃亡して、やむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つかたちとなりました。
織田軍の最も有力な武将、柴田勝家は、このとき、北陸で上杉景勝と戦闘中でした。上杉の西の拠点、魚津城を陥落させ、その余勢を駆って越後へむかおうとしていた矢先に、信長の変報が勝家の元に届きます。
勝家は後事を前田利家や佐々成政らに託し、ただちに魚津から船に乗って、越中富山を経て、居城の越前北庄城(福井県福井市)に帰り、光秀討伐の準備を開始しますが、とき既に遅く、勝家が北庄を進発したときには、すでに光秀は秀吉によって討滅させた後でした。
もう一人の織田の宿老、滝川一益は、上野厩橋城(群馬県前橋市)を本拠として、北条氏と対峙しながら、東国の新領土の経営に奮闘していましたが、信長の横死の知らせは大幅に遅れ、その上、信長の死を知った北条氏との戦いにもさんざんに敗れ、京に駆け上るどころではありませんでした。
信長の次男織田信雄は、本領の伊勢松ヶ島城(三重県松阪市)にいましたが、その兵の大部分は、信孝の四国征討軍に従軍していたので、信雄の周囲にはわずかな兵しかいなくて、伊勢より動くことはできませんでした。
織田の最大の同盟者、徳川家康は、甲州征伐の際に駿河を拝領した礼をのべるため、5月29日に安土城にきており、信長の勧めにより京都や和泉堺を遊覧中でした。
織田の有力武将のうちで、この時点で動静がはっきりしていなかったのは、光秀にとっては旧知の友人、細川藤孝、筒井順慶、そして摂津の国主たち、高山右近、中川清秀、池田恒興だったのです。
■ 毛利との和睦
先週(20日)の軍師官兵衛は、官兵衛がまだその事実を知らない、毛利の外交僧、安国寺恵けいに、信長が光秀に誅されたことを告げるという挙に出て、毛利を味方につけ、早々に毛利と和睦を結ぶと、一路、中国大返しを開始するところでおわりました。
毛利も光秀に呼応して、兵を挙げるなら、秀吉は光秀と毛利に挟撃されて、それこそ窮地に立たされるところでしたが、「天下は臨まない」という毛利家の家訓を忠実に守ろうとした小早川隆景は、秀吉の勝利に毛利家の今後をかけたのでした、
これで、秀吉には後顧の憂いがなくなりました。1日でも早く京に取って返し、光秀を討つ者が天下を制することができます。さあ、いよい歴史に名高い中国大返しです。
(月岡芳年画「高松城水攻築堤の図」(岡山市立中央図書館蔵)
(小早川隆景ー鶴見辰吾ー)
兵士たちの引き返す沿道には、おにぎりや飲料水が等間隔に用意され、秀吉軍は京に向けて駆けに駆けました。
この中国大返しが、どのような行程で行われたのかは、実は定かではありませんが、秀吉が高松城から岡山に拠点をもつ沼城に引き返したのは、天正10年(1582年)6月6日とする説が有力です。
この説にしたがえば、沼城から姫路城までは約770ロメートルの道のりですから、秀吉が姫路城に帰還したのは6月7日夕方ということになります。
そして、秀吉のもともとの本拠地、姫路城に到着した秀吉軍は、ここで6月9日朝までとどまり、休養をとっています。
この間、秀吉は、四方の武将に書簡を送りました。
の書簡には「上様(信長)ならびに殿様(信忠)いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」と虚偽の事実が書かれ、続けて「福富平左衛門が比類ない働きをした。めでたい。自分も早く帰城する」などという芸の細かいところも見せています。
■ 織田勢はこのとき
特に秀吉が意を用いたのは、摂津衆の動静ですが、ここで、この時点での四囲の織田勢の状況を簡単にまとめておきましょう。
京、大坂にもっとも近かったのは、三好康長・蜂屋頼隆・津田信澄とともに、長宗我部元親と戦うために、大坂でで四国への渡海作戦にとりかかっていた、信長の3子、神戸信孝と織田の宿将丹羽長秀です。
しかし、信孝と長秀は光秀を討つには最も有利な位置にありましたが、信長横死の緘口令が兵士間に徹底できず、兵の多くが逃亡して、やむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つかたちとなりました。
織田軍の最も有力な武将、柴田勝家は、このとき、北陸で上杉景勝と戦闘中でした。上杉の西の拠点、魚津城を陥落させ、その余勢を駆って越後へむかおうとしていた矢先に、信長の変報が勝家の元に届きます。
勝家は後事を前田利家や佐々成政らに託し、ただちに魚津から船に乗って、越中富山を経て、居城の越前北庄城(福井県福井市)に帰り、光秀討伐の準備を開始しますが、とき既に遅く、勝家が北庄を進発したときには、すでに光秀は秀吉によって討滅させた後でした。
もう一人の織田の宿老、滝川一益は、上野厩橋城(群馬県前橋市)を本拠として、北条氏と対峙しながら、東国の新領土の経営に奮闘していましたが、信長の横死の知らせは大幅に遅れ、その上、信長の死を知った北条氏との戦いにもさんざんに敗れ、京に駆け上るどころではありませんでした。
信長の次男織田信雄は、本領の伊勢松ヶ島城(三重県松阪市)にいましたが、その兵の大部分は、信孝の四国征討軍に従軍していたので、信雄の周囲にはわずかな兵しかいなくて、伊勢より動くことはできませんでした。
織田の最大の同盟者、徳川家康は、甲州征伐の際に駿河を拝領した礼をのべるため、5月29日に安土城にきており、信長の勧めにより京都や和泉堺を遊覧中でした。
織田の有力武将のうちで、この時点で動静がはっきりしていなかったのは、光秀にとっては旧知の友人、細川藤孝、筒井順慶、そして摂津の国主たち、高山右近、中川清秀、池田恒興だったのです。
- 関連記事
-
- 平忠盛 (2012/01/19)
- 祇園女御役ー松田聖子ー (2012/01/23)
- 待賢門院ー壇れいー (2012/01/31)
- 平清盛「第8回」 (2012/02/26)
- 中国大返し (2014/07/28)
いい記事だなって思ったらポチっと応援をお願いします。
にほんブログ村
ランチブログ ブログランキングへ
タグキーワード